東北紀行(7月9日~11日)
山崎太朗です。前回の東北出張(?)から約一ヶ月、今回も妻とふたりで三日間、東北沿岸部をまわりました。
深夜12時過ぎに埼玉を出発して、宮城県を越える頃には9日の早朝6時。あまりの眠さに金成パーキングエリアでちょっと寝るつもりが思いのほか熟睡してしまい起きたら10時。朝到着するはずが、陸前高田市高田町西和野、高田分団の屯所に着いたのは正午過ぎでした。
竹駒の気仙川沿い、瓦礫がだいぶ片付いていました。廻舘橋のあたりです。
しかもそこから分団の方々とかなり長いこと喋ってしまい、仕事を始めるのがずいぶん遅くなりました。
一ヶ月ぶりに行った高田分団は以前よりずっと落ち着いて(そのぶん人の出入りは極端に減っていましたが)、みんな自分のこれからのことを具体的に考えたり行動したりしていて、明るい雰囲気だったことをとても嬉しく思いました。
さて、高田分団の軽トラックをお借りして、高田の現在の中心である鳴石地区の伊東文具店へ。依頼してあったパイプ椅子を受け取って、そしてそれをおとなり大船渡、赤崎地区公民館・漁村センターへ届けました。
途中、伊東文具店で購入した文房具を、サンビレッジ避難所「一本松プロジェクト」へ差し入れしました。
高田町の避難所の中ではそのユニークな造りから「三つ星避難所」とも呼ばれたサンビレッジも、ドーム状の建物の中のドームテントの数は以前の半数以下となっていました。皆さん続々と仮設住宅へ移転しています。
これは、避難所にくらべれば落ち着いた生活ができるようになる反面、行政や民間からの支援が途絶えていくことを意味しています。
この日はすごい暑さでした。計れていませんがおそらく昼は35度あったと思います。(奥州市水沢で37度が計測されてました)
軽トラにはエアコンなぞ付いていません。窓を開けたいのですが、瓦礫から出る埃と悪臭、なにより大量のハエが入ってくるので簡単に開けられず、大船渡へのドライブは猛烈に厳しいそれとなりました。(あまりに暑くて最後は窓を全開にしました)
赤崎地区です。
高田分団にトラックを返してから、今度は自分の車で、米崎小学校仮設住宅と、そのすぐ裏にある「金久酒店」、そして小泉地区にできた(再開した)スーパーマーケット「ナインマート」と話をしてきました。
その後またしても消防団員の方々としばらく喋り、ついでにシャワーを借りました。僕がボランティアで滞在していた頃ずっと作っていた屯所の風呂に、初めて入りました。
この日、鳴石地区に、念願の飲み屋さん「カフェバーわいわい」がオープン(再開)するとのことで楽しみにしていたのですが、19時頃に行ってみたらラストオーダーの時間が過ぎていました。
食事していた熊谷さん(下の写真中央)と、高田で4月から炊き出しをおこなってきた横浜のラーメン店「こもん」の桜井さん(右)と、少しだけ話してその場を後に。
この時間になると、高田はもちろん宿泊する住田町でも飲食店さんは殆どやっていません(または知らない)。残念ながら夕食は住田基地でのカップ麺でした。
蛾が大嫌いな妻の新兵器、一人用の蚊帳。(まわりの人達が驚いていました)
蚊が大嫌いな僕には、以前復興市場で支援していただいたアースノーマット。
翌日10日、住田町を7時に出発、釜石へ。
釜石での具体的は予定はなく、情報収集するために、避難所や被災者宅をまわりました。
途中、車が小さな川の上で信号待ちをしている時、橋が大きく揺れました。そういう橋なのかと思いましたがそうではなく、まわりの電柱などもグラグラ。地震でした。そして津波注意報が発令、町にはサイレンが鳴り響くなか、僕らはマイヤ釜石店で買い物をしてしまいました。
釜石の避難所(市民体育館/働く婦人の家)はひっそりとしていて、どちらもそろそろ閉鎖とのことでした。物資要望も特になく、少し落ち着いてきたという印象でした。
釜石市街地の様子です。釜石は大きな町なので、被災しているのは町の一部という考え方もありますが、その被害は決して小さくありません。
釜石沿岸部の様子です。
鉄橋の脚の上部の柵が津波の力で曲がっています。ホントかよという高さ。
大槌町へ。
大槌は壊滅しています。人は一体どこにいるんだろうという感じでした。
店舗があったら話をしようと思っていましたが、全く見つからず。
それでも吉里吉里は、海も山もきれいです。
山田町では「ホームワンサトー」(ホームセンター)で復興市場の説明をしたのですが、特に進展ならず。
宮古は大きな町でした。
宮古駅を中心とした市街地が大きく被災していないため、部分的に見ていると普通に感じてしまいます。
復興市場への参加について話をしようにも、営業しているお店の数が多すぎて逆に難しいという、新たな悩みが発生しました。(釜石でも同じことが言えるかもしれません)
山崎二名、いろいろなことを考えながら、来た道を陸前高田へと戻りました。
この日の釜石の最高気温は36度だったそうです。確かにとても暑かったです。
高田分団の大坂分団長の(お母さんの)家にお邪魔したあと、この日の宿である矢作町の鈴木旅館へ。
鈴木旅館は悪くないのですが、とにかく暑くて寝苦しい一夜となりました。
11日。まず気仙沼へ。
高田から気仙沼へはしばらく、一旦内陸に入って行かなくてはなりませんでしたが、ちょうど前日10日、気仙仮大橋が完成しました。(開通式中に大きな地震が来たので大変だったみたいです)
そこを通りました。
高田で信号で停まったの初めてかも。
気仙川からはすこし悪臭(腐敗臭)がしました。
陸前高田の寝具店である「かねおと布団店」の菅野社長の現在のご自宅へ伺って、復興市場の話をしました。素敵なご夫婦でした。
それから、「菊武商店」に立ち寄って千賀社長にご挨拶をしました。
鹿折という地区で、別のお米屋さんを発見して、そこでもお話を伺いました。
「斉新米店」さんは店舗もご自宅も全壊して、斉藤社長のご一家は仮設住宅で暮らしながら、ギリギリ助かった倉庫を使って営業を再開していました。
鹿折は、津波だけでなく(報道されていたあの)大きな火災がおこった場所です。
斉新米店さんの倉庫前は、錆びた瓦礫が今も残り、4ヶ月経ってまだこれかと驚くような、ひどい状態です。
船が見えますが、海から数百メートルは離れた場所です。
気仙沼から南三陸町へ移動しました。
南三陸町ではあまり時間がなく、「歌津中学校」「ベイアリーナ」という大きな避難所にしか立ち寄れませんでしたが、ベイアリーナのスポーツ施設に勤めている佐々木さんに有益な町の再開店舗情報を教えていただくことができました。
これが後日、大いに役に立つことになります。佐々木さん、ありがとうございました。
南三陸町から石巻へ。
道が悪くてびっくりしました。道路脇の瓦礫もそのままのような状態で、宮城県北部は明らかに岩手県よりがれき処理が遅れている印象を持ちました。
石巻では、渡波小学校、湊小学校、中央公民館などをまわりました。目的はお店を経営していた方を探すことであり、チラシを置いてまわりましたが、すぐには見つかりませんでした。
話には聞いていましたが、石巻市街地は、これまで僕が見てきた被災地とはまったく違いました。
多くの被災者が、壊れた家屋に住み続けています。一階がぐしゃぐしゃな状態の家の二階に。
もちろん避難所もあるのですが、おそらく入りきらないのでしょう。そして、自宅避難者には、支援物資が全然届いていないそうです。
もうひとつ非常に気になったのは、市街地はかなり車の通りが激しいにもかかわらず、信号がほとんど直っていないことです。各地から応援に来ている警察の方々による交通整理、大変そうでした。(この日も猛暑でした)
暗くなった石巻から、埼玉へ帰りました。
この10日、11日に沿岸部を走り抜けたことについて、僕は目に見える成果をあげられなかったと残念がり、妻はそれでも多くの被災地を実際に見ることができて良かったと言いました。
実際、このあとの数週間で、この旅の成果が出ることになります。だいたいいつも妻が正しいのが復興市場のスタイルです。